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2009年 03月 27日
アクション映画が大好きで、コアな007ファンでもある。
ダニエル・クレイグの新ボンドも大好きだ。特に前作「007/カジノ・ロワイヤル」は非常に出来が良く、いろいろな意味でバランスが取れた、ボンド映画という枠を超えた名画であったと思う。 だから、その続編となる新作「007/慰めの報酬」への期待も、当然のことながら大きい。 さて、観賞後の感想であるが……。 はっきり言えば期待外れであった。それほど面白いとは思わなかった。何しろ、演出に緩急がなく、ドラマが薄く、ロマンスもなく、展開は一本調子で……。 本作の出来に、同じように落胆する声は案外多い。 ネット上でも、“単なるB級アクション映画”“「ジェイソン・ボーン」シリーズに酷似”“ボンドにゆとりがなく、これはもはや007映画ではない”云々との評判が、多数見受けられる。 私もそう感じたし、正直、失敗作とさえ思っていたので、再び観るのはあまり気が進まなかった。 ただ、いくつか引っ掛かる点はあった。それは、なぜアクションを撮ったことのない、人間ドラマの名手である監督と、やはりドラマの得意な脚本家を起用していながら、出来上がった作品がドラマ部分のほとんどない、全編ド派手なアクションで覆われたものとなったのか、ということ。また、なぜ1時間46分という、ボンド映画史上最も短い上映時間の中に、この複雑な内容を強引に詰め込んだのか。さらに最大の謎は――後述するとして、これらの疑問点に対して解答を見出すべく、先日2回目を観に行った。 そして映画を観終わり、この作品に仕掛けられたレトリックに気づいた時、驚嘆の声を上げた。本作が、前回観たのとはまるで違うものに観えたからだ。その驚きはあたかも、CGで描かれた無機質な砂絵から鮮やかな図形が浮かび上がった時の状態に近い。 ズバリ言おう。本作は、人間ドラマの手練れや名優たちが作り上げた実験的な作品であり、同時にアクション映画がたどり着いた奇跡の境地でもある。さらに言うまでもなく、とんでもない傑作であった。 理由を説明しよう。普通、アクション映画におけるアクションの位置づけというのは、それが映画の目玉とはいえ、アクションはあくまでストーリーの傍らに添えられた華に過ぎない。アクションがストーリーと融合することはなく、極論すれば、アクションはストーリーにとって必要不可欠なものではないのだ。ところがこの作品では、アクションがアクションとしてではなく、何とストーリーとして“機能”している。そのことに、まず驚かされた。 各アクション・シークエンスは緻密な計算の基、使用されるモチーフ、照明や天候までをも含めた色彩設計、キャラクターの演技、絵の切り取り方、テンポ、編集のしかたなどに至るまで統御され、それらが映画としてのすべてを“語って”いる。それが分かると、随所に散りばめられたダブル・ミーニング(二重の意味づけ)や暗喩の意味もなお明瞭となる。 その一方、アクションの合間にはさまれたドラマ部分では、俳優たちの台詞は極限まで削ぎ落とされている。 これは、そのように凝縮することで、かえってドラマに重みを持たせる効果を狙ったためだろう。 なるほどこのような作りでは、従来のボンド映画やアクション映画を見るための評価軸は、本作においては役立たない。むしろ007やアクションに愛着のある映画ファンであればあるほど、本作の本質を見誤り、低評価となる可能性が高いのではないだろうか。 本作ではだから、アクションをストーリーとして“読み”、ドラマ部分に込められたキャラクターたちの持つ人生の機微を、短いやり取りの中から一瞬にして“体感”しなければならない。この二つの作業が出来て初めて、この映画の観賞は完遂するのだ。いったい、何という困難な、同時に何という知的で贅沢な映画的愉楽を、われわれは得たのだろう! さらに、本作が短尺であることにも意味があった。否、短尺でなければならなかったのだ。上映時間がこれより少しでも長きに過ぎれば、本作の持つ緊密な空気は失せ、その味わいは急速に色褪せる。 そしていよいよ、最後に残された、最も大きな謎の解明に移ろう。 その謎とは――本作におけるどの要素にも、ボンド映画としての“独創性(オリジナリティー)”がないことだ。“独創性”こそが、ボンド映画と他のアクション映画との間に一線を画し、ボンド映画に“格式”をもたらす。ところが本作では、本編中のどこにもこれがない。それがために、“単なるB級アクション映画”や“「ジェイソン・ボーン」シリーズに酷似”などの風評を立たせてしまったとも言える。 だが、それは誤解であった。本作には、ボンド映画史上最も大胆にして、究極の独創性があったのだ。それは、“アクションそれ自体をドラマの語り部として機能させ、徹頭徹尾、そのスタイルで映画を進行させてしまう”ことである。 本作のスタッフは、超弩級のアクションと深遠な人間ドラマというまったく異なった二つの要素の、時間的、存在的な融合という、かつて誰も思いつかなかった作業を試み、それを成し遂げた。まさに偉業である。特にマーク・フォースター監督の見事な手腕には舌を巻く。道理で、本作の“中に” ボンド映画としての独創性を探しても見つからないわけである。何しろこの映画の“スタイルそのもの”が、かつてないほど“独創的な産物”であったからだ。本作をもって、ボンド映画はまったく新しい地表に降り立ったといえる。 こうして、映画を丸ごと使った大仕掛けを展開し、007ファンたちを困惑させた製作陣は、ジェームズ・ボンド以上に曲者だ。だが、変化を恐れず果敢に挑戦し続け、何度もシリーズを蘇らせる彼らの姿勢に、私は惜しみない喝采を送りたいと思う。 #
by b-wind-forever
| 2009-03-27 14:47
| 映画評
2007年 10月 24日
カンフーの生徒、フランソワがキャリア・デザイン関連で4冊目の著書『日本人には教えなかった外国人トップの「すごい仕事術」』(フランソワ・デュ・ボワ著 講談社刊)を出した。
これまでの著作とは趣向を変え、本書は、日本で活躍する外国人経営者へ著者がインタビューするという形式を取っている。登場人物は、以下の錚々たる面々。 ・カルロス・ゴーン(日産自動車株式会社取締役共同会長兼社長) ・リシャール・コラス(シャネル株式会社日本法人代表取締役社長) ・マリア・メルセデス・M・コラーレス(スターバックスコーヒージャパン株式会社代表取締役最高経営責任者兼最高執行責任者) ・アントワーヌ・サントス(エコール・クリオロ代表取締役) ・ティエリー・ポルテ(株式会社新生銀行代表執行役社長) 以上敬称略 まず、ビジネスと芸術という異なる分野の、どちらも世界的なトップが対談するという企画内容が面白い。こういう視点で、仕事や人生についてさまざまなことを語り尽くした書籍は、おそらくそう多くはないだろう。 本書に登場する各人が、“キャリア”という言葉をどう捉え、これまでどのような“道”を歩んで来たか、それぞれの時代には何がモチベーションとなり、ターニングポイントや逆境に遭っては何を心の支えとして頑張って来たか、詳細については本書をどうか存分に読んでみてほしい。 当然のことかもしれないが、難局を乗り越え大きな業績を挙げた彼らは、それぞれが人間としても、とても魅力的である。厳しいだけではなく茶目っ気があり、芸術への理解も感性も豊かだ。著者は芸術家としての自らの感性を羅針盤に、そうした彼らの心の内面へと自由闊達にインタビューを進めていく。 世界のトップ経営者たちがこれだけ胸のうちを話したのも、またそれを聞き出すことができたのも、ひとえに著者の人柄によるものであろう。その意味では、この本はまさに“インタビュー(interview)=相互に見る”としての役割を、いかんなく発揮しているといえよう。 面白いのは、彼らが歩んできた道は、当初自分が予定していたものではなかったり、偶然の出会いやアクシデントによって築かれてきた部分もまた多い、ということだ。自分が歩むべき道は一通りではない。いくつもの脇道や近道、また遠回りの道がある。むしろおおいに寄り道をし、いろいろなチャンスに出会う可能性がある場所に身を置くことこそ大切なのだ。著者も、またインタビューを受けたトップ経営者たちも、自らの体験を通して読者にそう語っているような気がしてならない。 “人の往く裏に道あり花の山”という諺もある。 自分を取り巻く自然な流れに身をまかせ、それを楽しみながら実力を磨いていけば、いつか思いもかけない大きなチャンスが巡って来る。誰もが可能性に満ちているんだ、心配しないで、たゆまず歩いてごらん。本書は、人生に成功した先輩たちが、若者にそう語りかける応援歌でもある。 あまたのビジネス書は多かれ少なかれ、厳しく冷たい印象があるが、本書は違う。どこか“温かい”のだ。それはおそらく、ビジネスと芸術の異文化交流という視点、また著者やインタビューを受けたトップ経営者たちの人間性が、知らず醸し出しているものなのだろう。 これから社会に出る若者は、本書を読んで勇気を奮い立たせ、ある程度社会経験を積んだ人であれば、トップ経営者たちのあまり知られていない“人間らしさ”に、心癒されるに違いない。全編を通し、とにかく珠玉の名言の宝庫である。心に留まった言葉にはぜひアンダーラインを引き、折に触れ再読することをお勧めする。 確かな手応えを持った、名著である。 #
by b-wind-forever
| 2007-10-24 18:02
| 書評
2006年 11月 22日
カンフーの生徒、フランソワがキャリア・デザイン関連で3冊目の著書『ダメな自分が変わる本』(フランソワ・デュ・ボワ著 WAVE出版刊)を出した。現在旬の脳科学者、茂木健一郎氏の推薦文が付き、著者のカンフーポーズ写真もふんだんに載った、ビジュアル面でも強いインパクトを持った本である。
今回は私も監修者として名を連ねており、カンフーの修行から大いなるインスピレーションを得た著者が、よりよいキャリア・デザインを構築するためのメソッドとして、カンフーのメソッドなども上手に溶かし込んでまとめた内容となっている。多くの人が自らのキャリア・デザインについて考えるための、よきヒントとなる本であろう。 前著同様、本書で述べられている内容も、いたってシンプルである。ともすれば、そこにある言葉からは何も読み取れないように感じられるかもしれない。ダメな自分を変えるためには、こうした単純なメソッドよりも、自己を向上させるために組まれた複雑なプログラムや、スマートな社交マナー、あるいはビジネスを有利に運ぶためのスキルを学んだほうが手っ取り早いと思われる方もいるだろう。 たしかにそれらは自分を磨いてくれるし、より素敵な人間に変えてくれるかもしれない。あるいは自分が生まれ変わったようにすら感じられるかもしれない。しかし、じつはそうではない。それは錯覚に過ぎないのだ。 言ってみれば、それらは素敵(に見える)衣装を、学んだ者の“心の表面”にまとわせただけに過ぎない。人のありようとしての肝心要のボディ(つまりは“心の本質”)までは、残念ながら変えてはくれないのだ。それが証拠に、そうした方便だけに偏重したプログラムや、手っ取り早いテクニックやスキルを学んだだけの人は、いずれ同じ問題につまずき、同じような“表面的な学習”を繰り返しては困難な人生を歩かざるを得ないことだろう。 反対に、本書のシンプルな言葉が含蓄するエッセンスは、あなたの心と身体の本質的な部分を、ガシガシ鍛えてくれる。そこが本書と類書との決定的な違いであり、そこにこそ本書の真価があると言えよう。 著者のメソッドは一見、目の前を通り過ぎる慌ただしい日常のシーンとは何ら関係ないようでいて、じつはそこにおける“主体たる自分”を変えるためのみごとな“王道”となっていることに、読者は早く気づくべきである。 特に、いつも同じ過ちを繰り返してしまう、どんなセミナーに出て“自分磨き”をしても、何だか一向に自分が変わった気がしない――常々そう感じている方であればなおさら、芯から魅力的な人間になるために、“その場しのぎのテクニック”はもう捨てて、本書を存分に活用してほしい。 本書の特色として“身体を使う”“とにかく行動する”“すべてを意識的に行う”といったことが繰り返し述べられ、強調されている。なぜか。 それは、現代人は「近代」という名のカルト(ある勢いを持った集団)にかき抱かれ、ぼんやりとした眠りの裡にあるからだ。夢から覚め、現実の世界をきちんと見据えるためには、覚醒することが必要だ。そのためには“身体を使い、行動のすべてを意識的に行う”ことが何より大切なのだ。そうして自らの視点が新たになったと感じられた時、試みに問い掛けてみるといい。 「私は泣ける映画が本当に好きなのだろうか?」 「このブランドのデザイン、本当に気に入っているのだろうか?」 「今観ているテレビ、本当に面白いと思っているのか?」 その他さまざまなことがらについて、自らの心に真摯に耳を傾けてみた時――そこに今までと違う答えを見出す自分が、きっといるはずである。 視点が変わり、自分が変わることは素晴らしい体験である。広くなった視野には、周りの景色が今までよりも鮮烈な感動を伴って見えてくることだろう。恐れず、自分をどんどん変えてみてほしいと思う。 それでも「私はダメじゃないし、こういう本はいらないわ」と思いますか? いえいえ、これはあなたにこそ必要な本なのです。 #
by b-wind-forever
| 2006-11-22 16:29
| 書評
2006年 08月 01日
名カルト作品の誉れ高い「マタンゴ」を観た。
さすがは本多猪四郎監督&円谷英二特技監督の、東宝特撮黄金コンビである。ストーリー、テーマ、演出など、すべてに破綻がなく、最近のVFXに慣れた目にも遜色ない特撮技術も含め、じつに見事な作品であった。 ところで、絶海の孤島に生える“マタンゴ”は、まぎれもなくドラッグである。これを食べた登場人物は、夜のキャバレーに踊るダンサーの幻影に酔う。サイケデリックやドラッグといった、当時興隆し始めたサブカルチャーの意匠を色濃くまとった作品であることが再確認できる、印象的なシーンだ。 不安や緊張が極度に高まると、人はドラッグを強く求める。ドラッグに酔い、つらい現実を一時忘れて逃避する。ドラッグ文化がかつて一部で蔓延したのは、いろいろな社会問題に対する不安や緊張から逃避しようとする、本能的な要請なのであろう。そうした社会問題のひとつに、人間を疎外したまま暴走する近代科学に対する、当時の人々の大きな不安もあったことと思われる。 時は移って現代。“泣ける”映画が全盛である。 「世界の中心で、愛を叫ぶ」「私の頭の中の消しゴム」(←「僕の世界の中心は、君だ」なんて映画もありますが)を例に出すまでもなく、テレビに流れる映画のCMには、劇場で“泣いている”観客のアップを多用したものが目立つ。要するに、みんな“泣きたい”のだ。 涙は感情の浄化(カタルシス)作用を持つ。河島英伍の「酒と男と涙と女」ではないが、どうしようもない感情の昂ぶり(たとえば不安や緊張)を経験すると、男は酒を飲み、女は涙を流して感情を浄化させ、そうして癒される。 現代の大勢の人々はドラッグを求める代わりに、「セカチュー」を求め、「セカチュー」に酔い、つらい現実を一時忘れて逃避しているのだろう(ちなみに、テレビ「エンタの神様」で、面白くも何ともないコントに爆笑している会場の人々も、同じ効果を求めているんだろうね、きっと)。 とすれば、1960~70年代に生きた人々が感じたのと勝るとも劣らぬ、大きな社会不安が現代には横たわっているのかしらん。副作用バリバリのドラッグよりは“泣ける”映画のほうが、まだ害は少ないのだろうけど。 そういえば、映画に出てきたキノコの“マタンゴ”。おいしそうだったなあ。空腹時に観たので、食べたくてしょうがなかった。 「マタンゴ」……☆☆☆☆(満足度大。ぜひおすすめ) #
by b-wind-forever
| 2006-08-01 17:59
| 映画評
2006年 07月 21日
カンフーの生徒、フランソワ・デュ・ボワの著作2作目を紹介したい。『コイビト・ノ・ツクリカタ』(グラフ社刊)という再びすごいタイトルの、女の子向けの恋愛指南本である。
恋愛指南本というのは、著者が女性の場合、“女、かくあるべし。さすればモテるであろう”という内容になり、反対に著者が男性の場合は、“男、かくあるべし。さすれば~”といったものが多い。 つまり、どちらも視点が片方の性に偏ってしまっているのだ。それが何だか妙に居心地悪く、私はこの手の本があまり好きではない。 ところが、恋愛関係といえども、結局は家族や友人、またビジネス上のお付き合いなど、われわれがふだん取り結んでいる人間関係のひとつにしか過ぎないわけで、まったく異質な世界のことではない。この本質を忘れて、恋愛関係だけを非常に特別な関係性のごとく捉えてしまうことから、著者も読者も多くの落とし穴にはまって、右往左往してしまうのだ。 本書の著者は男性であるが、“かくあるべし~”論も、一方的に偏った視点もなく、フランス人らしく軽妙でソフトな語り口を通じて、恋愛関係のそうした本質的なことにさりげなく気付かせてくれる。著者の研究する「キャリア・デザイン=“自分の人生をいかに自分らしく構築するか”」のエッセンスも随所に活きる。 周囲を見ればわかるように、“モテる人”というのは、じつは異性だけではなく同性にもモテており、人間関係の処理もまた上手な人が多いと思いませんか?(←反対に、異性からはモテるが同性には嫌われる人というのは、男女問わず非常に難ありでは?)。 “異性”“デート”“キス”“セックス”などなど、こうした恋愛に関するいろいろなことがらへの色眼鏡をいったん外して、素直な気持ちで見つめなおしながら、本書を読んでほしい。そして、男にも、また女にもモテる女に、ぜひなっていただきたいと思います。 #
by b-wind-forever
| 2006-07-21 15:56
| 書評
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